科学という比較的マシなものにこだわりの根拠を持っているために発達障害の発見が遅れるケースがあるかもしれない

 発達障害には「こだわり」が強いタイプの人がいる。

 カレー沢薫の『なおりはしないが、ましになる』にて著者の父親のこだわり行動についての描写があったが、常人にとってはその行動理由の論理的理解が難しいものであった。例えば、他人から見れば「汚部屋」と判断されるような住環境にいるにもかかわらず、清潔さには独特のこだわりを見せ、排便をした後には入浴する、頻繁に手を洗うなどの行動を行っている。

 そういった行動は他人の目から見れば異様なものに映るかもしれないが本人にとっては「過去のうまくいった事象の再現」を行っているに過ぎないのだと私は思う。カレー沢氏の父親は入院を機に入浴や排尿するタイミングが病院生活で行っていたものに変わりそれが新たなこだわりとなったが、その理由は「そのようにしても問題がないことを強制的に分からされたため」であると考えられる。

 このような行動は強迫性障害の症状の可能性も大いにあると思われる。実際発達障害強迫性障害の併発は少なくない。スキナー箱の中の鳩のように迷信行動が条件付けされてしまうと論理的関連が見られない行動を行うようになってしまうのだと思う。

 では、そのこだわりの根源が科学的論理であったらどうだろうか。自分の行動を顧みてその行動にいちいち科学的根拠を求め、それを愚直に守るような性格になっていったらどうだろうか。世間一般で言われている常識とその科学的事実との乖離がある事柄についてはそのような性格の人は周囲との摩擦を引き起こすが、そうなったとしても「融通の利かない人だな」という程度で済むのではないだろうか。

 今はインターネット検索である程度確かな情報を得ることができるが、今後検索結果の汚染が進んでしまったときや、あるいは、そのような人自身の検索能力の衰え、最新の技術の追走の遅れなどが起こった時、今までは顕在しなかった特性が表面化し困惑することになると思う。

 まあそのようなひとは自分自身の特性についても今のうちから調べて自己認識を持っていると思うのでそこまでひどいことにはならないとは思うが、将来的にはインターネットで調べまくるという対処法を行うことは難しくなっていき、しかも偽情報が氾濫するようになってしまっていては却って病症を悪化させてしまう可能性があることを考えると暗い気持ちになる。